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欠陥人間の考えたことを綴っていくよ

物流業者で肉体労働してたオタクがITベンチャーで働く女性になるまでの話

この記事は、自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 13日目の記事です。

hg0です。昨日とうとう23歳になってしまいました。もう歳は取りたくないですね。

オタクの自分語りアドベントカレンダーということで、自分のことを好きなだけ書いていくわけですが、書きたいことは普段からノリと勢いでブログに書いてしまっているので、今回はある程度長い期間のことについて(?)書こうと思います。

タイトルがありがちな大袈裟な感じになってしまいましたが(やってみたかっただけ)、これはとある地方の大学生の物語です。拙い文章のわりに長文になってしまいましたが、よろしければお付き合いください。


受験料と入学金さえ払えば入れるような、地方のFラン私立大学に入った頃の私は、コミュニケーションが苦手で、内向的な、ありがちなオタク気質の男性だった。これでも中学の頃はどちらかというと口数の多い人だったのだが、どうして人と話すのが苦手になってしまったのかというと、理由は様々である。自分の声が苦手だったことと、欠陥人間なので、口を開くと周囲に毒を撒いて、人を傷付けるのではないかと恐れ、話せなくなったといったところが主な原因だろうか。

第二次性徴が終わって数年。 私は男性に生まれたくなかった。「男性に生まれたくなかった」と最初にはっきり思ったのは高校生くらいの時だっただろうか。毎日、鏡を見ると、「自分ではない何か」がそこに立っている気がした。

自分ではない何かだったので、ここでは「彼」としよう。

彼は髭が生えるのが嫌で、少し気になると毎日のように毛抜きで跡形もなくなるほど抜いたり、男性的な髪型が嫌で、親に散髪に行けと言われても、無視するかほとんど切らずに帰ってきたりした。ある時は父親に「それ本当に切ってもらったのか?一緒に行ってやるから、今からでも戻って、クレーム入れて切りなおしてもらえ」と心配されたりすらもした。そして彼自身が自分の声が嫌いなのも、いかにも男性的な低い声だからだったと思う。性別の事以外でも、ストレスを抱えやすい体質だったためか、自殺念慮が酷く自傷行為に走ったこともあった。

彼はある日、大学のジェンダー論の授業や、SNSの知り合いを通して性同一性障害の話を聞いた。それまでは男性として生まれたからには男性として生きるのが運命«さだめ»w、みたいに思っていたのと、では男性になりたくなかったといって女性になろうと頑張っても、よくテレビに出ているあの芸能人やあの芸能人程度にしかなれないと思っていた。しかし、SNSでどう見ても女やろみたいな元男性を観測して、自分も努力すればそうなれるのかもしれない、と思った。そして、色々と調べているうちに女性ホルモンのサプリメントや錠剤がネットで買えることを知った。そのまま何もしないよりは自身の外見や身体に満足できるようになるのかもしれないと、ぼんやりとした気持ちだったが、お金の余裕が無いながらも自己責任で飲み始めた。

2年生の初夏。大学生活も落ち着いてくると、彼は趣味にお金を掛けたかったので、アルバイトを始めることにした。色々なアルバイトを始めては辞めた。最初は飲食店から始めたが、続いても数日、長くて1ヶ月が限界だった。接客業や、人とのコミュニケーションが必要な仕事は向いていないとすぐに気がついた。最終的に、物流業者の仕分けセンターで作業員として働き始めた。

彼の毎日の仕事の中で、やることは決まっていた。ベルトコンベアから流れてくる荷物のラベルに印字された番号を見て、同じ番号の書かれた場所に持っていくだけの単純作業だ。ほとんど視覚情報だけに頼って、無心で作業し続けるだけ。他人とコミュニケーションが出来ない欠陥人間にとっては、最高の仕事だった思う。

しかし、それは最初だけだった。

仕分けの作業こそはベルトコンベアのような機械が導入されているが、その他の大部分は人間の肉体に頼っていた。夏は暑く熱中症で倒れる人がいたり、冬は逆に凍えるほど寒かった。何人もの人が何百kgといった荷物を載せた車輪つきの鉄の塊を引いてあっちこっち動き回るような作業場で、怪我をする人も多く、骨折や裂傷といった労働災害もしばしば起こっていた。実際、彼もよく軽い傷や打撲痕などをつけて家に帰っていた。ダンボールの端で皮膚を切ってしまうと、リスカ跡みたいになる。リスカしたことないけど。

暫くして彼は、様々な仕事を覚えさせられるようになった。機械に掛けられない重量物や特大の荷物を仕分けする仕事。到着した荷物を、退勤時間まで絶え間なくベルトコンベアに載せ続ける仕事。荷物で一杯になった容器を移動させて並べ続ける仕事。どれもかなり肉体に負担が掛かったし、コミュニケーション能力が多少は要求された。肉体酷使ではない仕事というと、封筒のような厚さの薄い荷物の仕分けや、荷物のバーコードの読み取りといった作業があったが、職場内では決まって、体力勝負の仕事は男性、軽作業は女性という暗黙の役割分担が確かに存在していた。そういった性差や体力差のために仕事内容に差が出てしまうのは、仕方がないことかもしれない。それに、彼は戸籍も名前も男性だったので、男性の仕事をさせられるのは当たり前だ。だけれど、彼は「性別により仕事の内容や負担に差がある」ことよりも「自分が男性である(男性として扱われている)」という事実に気付き、彼のメンタルを傷つけた。

彼は、女性ホルモンの錠剤を服用していることによる倦怠感や体力の消耗が酷かったため、肉体に負担のかかる仕事はパフォーマンスが芳しくなかった。それに加えて欠陥人間なので、コミュニケーションが必要な場面になると相手の意図が汲み取れないことも多かった。肉体を酷使しつつもスピードとコミュニケーション能力を求められるような場面では、注意されたり怒鳴られたりもした。無意識のうちに、やりたくないという気持ちが外見や態度にも現れていたのかもしれない。

この頃が彼の希死念慮のピークだっただろうか。働いている時、衝動的に「ここから飛び出して、トラックに跳ねられて死んでやろうか」とか「荷物の入った台車に下敷きになったら死ねねえかな」と思ったこともあった。しかし、そんな死に方で確実に死ねるはずはなかったし、仕事が終わって目の前のストレスがなくなれば、衝動的な「死にたい」という気持ちもなくなった(ぼんやりとした死にたい気持ちはいつもあったが)。しばらくの間、大学と課題とバイトで容量オーバーになっているようなそんな毎日を過ごしていた。すると、やがて彼はあまり肉体酷使かつスピードを求められるような作業は割り振られないようになり、冷蔵の荷物の仕分け作業をメインで行うようになった。それと同時にメンタルも落ち着いて、再びまともに仕事に向き合えるようになってきた。

職場は全体的に、大学生よりも30-60歳くらいの年代の方が多かった。昼間の時間帯は主婦のパートの方も多いが、彼の働いている夕方から夜の時間帯だと、生活が限界っぽい中年男性が多く、特に夏場は悪臭が漂っていたりして苦しかった。冷蔵の作業はそこまで身体に負担は掛からず、辛くはなかったが、職場全体で垣間見える荒んだ人間関係や噂話を聞くたびに、彼は、ここに居続けるのは良くない、と思った。

 

物流業者でのアルバイトを続けながら年月が経ち、大学3年の末になった。女性ホルモンを続けていたこともあり、その頃の彼は男性なのか女性なのか、見た目だけだとふわふわした感じだった。大学の友人には「お前は男とか女じゃなくて、性別: (本名)だよな」みたいな事を言われていた。そんな彼は自らに決着をつけるため、1年間休学をしてバイトをしながら一人暮らしをし、希望の性別での生活をしてみようと思った。中途半端に留年するより圧倒的にコストパフォーマンスが良いし、休学できるチャンスは、4年生になってしまえばこの先もうないのは確かだ。

年度末が近づき、彼と大学の教授とで、進路や就職活動についての面談があった。彼は休学したい、と伝えたところ、教授は案の定いい顔をしなかった。「何か海外に留学して研究をするとか、そういう学術的なしっかりした理由がないなら無理だ」みたいな事を言われて、内向的でコミュニケーションが苦手な彼は、何も言うことができなかった。そしてこの選択が失敗したことで、後々何十万といった金が飛ぶ事になるのは、当時の彼は予想していなかった。

結局、彼はそのまま4年生になった。周りが就職活動の話をし始めたと思ったら、束の間にどんどん就職が決まっていたようなそんな中、彼は教授に、とある外部の大学院の推薦をもらって、受験することを決めていた。その大学院でやりたい研究や作りたいものはあったし、寮に泊まり込みの生活をすれば、家族にも干渉されずそれっぽい生活をしてみることが出来るかもしれない、と思った。

しかし、結果は不合格だった。大学では他の誰よりも熱心に研究や制作をやってきたつもりだったけど、所詮はFラン底辺私立大学でやった事なんて何も通用しないんだ、と思った。そのまま自分の大学の院に上がっても良かったのだが、やりたい事が出来るかといえば微妙だった。就職も何も考えておらず進路に困っていた彼は、とりあえず学部を卒業した。就職活動をする上でも、このままフリーターになるよりかは大学に籍を置いてもらった方が絶対良いと思い、大学5年目を「研究生」として過ごす選択をした。

研究生は週に1度、教授の授業を受けることができる。ただ、研究生なんていうのは名前だけで、小学生の習い事のようなことに何十万も払ってるようなものだった。バイトの掛け持ちも始めて、課題をする余裕もなかったし、課題ができないことでどんどん精神が濁っていき、彼は結局、大学に行かなくなった。虚無になりながらも、バイト漬けの日々を過ごし、細々と就職活動をしていた。

就職活動では基本的にエントリーシートで落とされることが多かった。ポートフォリオなども一緒に送るようにしていたし、その内容も周りの学生(といっても所詮Fラン底辺私立大学だが)に比べればしっかり書いていたほうだと思う。ただ、履歴書の性別欄の「男・女」の男に○を打っているのに、証明写真が髪の長い人だったら、普通の企業の採用担当の人はそりゃお断りするのかもしれない。彼のメンタルは豆腐レベルをさらに下回って液状化寸前だった。いわゆる「お祈りメール」が来る度に必死に涙を堪えていた。メールが来る度に「あなたは欠陥人間です。うちの会社には不要です。もう連絡してこないでください」と言われているようだった。しかしながらこのまま研究生とバイト漬けの生活を延々と続けるわけにも行かず、にっちもさっちも行かない状態だった。

 

この時期で、彼が最初に女性ホルモンを飲み始めてからおよそ3〜4年経っていただろうか。とうとう親も黙認して髪を切れと言わなくなってきたので、髪も伸ばしっぱなしにしており、肩より下まで伸びた。服装も自然と中性的なものや、男性が着ても差し支えない程度のレディースものを選んで着るようになって、彼は、中性的な姿でいるのが一番落ち着いた。明らかな男性っぽい格好をしたり、男性っぽい服を着ることは抵抗感があったけれど、その一方で自分が女性らしい格好をするのは許されるのか分からず不安だった。

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就職活動の傍ら、彼は何度か、とあるSNSでのオフ会のために東京へ行ったり、地元にSNSでの知り合いが遊びに来た時に会ったりした。インターネットで知り合った関係だと、気兼ねなく色々なことを話すことができた。考えてみれば、大学5年目に入ってから現実でそういった話ができる友人はいなかった。オフ会ではSNSで知り合った人々とドライブをしたり、買い物をしたり、食事をしたり、酒を飲んで話したりして、嫌なことを忘れて幸せな時間を過ごした。彼の良い思い出になった。人と話すことの楽しさをようやく理解できた気がした。

後日、彼は、出会った人々に性別に関する印象を聞いてみた。多くの人が「女性」と答えてくれた。身なりに関しても思っていたより好印象で、今まで現実でほとんど評価される機会がなかったそれは、彼の予想を大幅に超えていた。今まで「自分ではない何か」だと思っていたそれを、信じられないくらい絶賛してくれる人もいた。

彼の中の色々なものが刺激された。「彼」が「私」になった瞬間だった。

その後、私は、やっと本格的に女性として生きて行く決意をし、自己判断で飲んでいた女性ホルモン剤もやめて、性同一性障害のクリニックに通うことを決めた。買いたかった化粧品や着たかった服も、店舗で買って着れるようになった。もう人生でやりたいと思ったことはほとんどやり尽くしたし、毎日死にたいと思って生きていく位ならいつ死んでもいいと思っていたが、最後くらい自分の本当になりたかった姿で死んでおこうと思った。

その決意をした数日後だろうか、オフ会でも会ったとあるSNSの友人から「会社決まらないならうちくれば?」とご紹介を頂いた。大学での成果物や作品を見て頂き、面談をした結果、フロントエンドのエンジニアとして働けることになった。東京の自由な社風のITベンチャーといったところで、憧れていた会社だ。とりあえずは自宅でリモートワークでパートタイムとして働いて経験を積み、それから上京する、という流れになった。私の中の色々なものが、再び満たされていった。私は人生最後の我侭として「就職して東京で一人暮らしをして、女性としての生活を送ること」を決めた。

物流業者のアルバイトは退職の手続きを取って、今月中にやめる事になった。色々と職場のことを悪く書いたけれど、ようやく職場の方々に溶け込んで話ができるようになってきていた気がする(そう思っているのは私だけなのかもしれないが)し、少数での飲み会なんかにも誘われるようになっていた。それに3年半近く通った職場なので、実際にやめるとなると、スッキリするような、ちょっと寂しいような……不思議な気分だ。

大学に行っていないのはまあ……ポジティブに捉えれば、自分を見つめ直す時間を何十万と出して買ったと思えばそれでいいのかな……。精神的に余裕があれば、あと数ヶ月の短い間だけど復帰して最後までちゃんとやりたいと思う。休学して仕切り直すことが出来ていたら、よっぽどそっちの方が安上がりで良かったとは思うけれど。

かくして、私は「人生最後の我侭」が叶うまであと数十cmくらいの場所まで辿り着けた。しょせん欠陥人間なのは変わっていないし、「Let it Go」を歌っているときの某ディズニー映画のキャラクターみたいに頭の中がお花畑になっているので、この先地雷を踏んで大爆発みたいな事になりやしないかという不安な気持ちを抱えつつ、もうあと一歩がうまく踏み出せますようにと祈りながら、最後の我侭を叶える為に生きていくことにした。

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昨日が誕生日だったこと、平成最後の年になること、それから就職、新しい生活……と様々な節目だったので、ざっとこれまでのことを書いてみました。もうちょっと後味悪い感じの終わり方をしようと思っていたんですが、意外とめでたしめでたしという感じで終わってしまいましたね。結局就職した自慢みたいな記事になってしまいました許して下さい(同時に退職エントリ(?)でもある)。
フロント周りの仕事ですが、今までは自分の作りたいものを自分の作りたいように作っていたので、仕事としてチームで作るというのは個人でやるのと全然違って何もわからんって感じです。今はとにかくGitとかVueとかの練習で色々作ってます、はやく他の社員さんに追いつけるようにがんばります。

私は今、幸せです。この記事を書く機会を設けてくださったアドベントカレンダー主催の方。私に仕事を紹介してくださった方。採用してくださった社長さん。普段からSNSで仲良くしてくださっている方々。ここまで記事を読んでくださった貴方。皆さんに本当に感謝しています。こんなに沢山頂いてしまって何を返したら良いのでしょう……毎日のように頭を抱えています。私にできることがあれば教えてください。

この記事では語り切れなかった恋人の話や他の仕事の話などもあるのですが、機会があれば、是非、またお話しましょう。あと、自分のことを好きなだけ話すAdvent Calendar 2019も楽しみにしてます。
明日はえくすさんです。それではさようなら。